« 今日のT・・・5/25 エース復活? | トップページ | 今日のT・・・5/26 »

2005/05/26

体罰

 乙武洋匡オフィシャルサイト『教え、諭す。』にTB。

 教育の場における体罰は是か非か?を考える前に体罰はあったほうが良いか?なかったほうが良いか?と考えてみる。答えは簡単だ。


 体罰はないほうが良いに決まっている。


 では、是か非か?を問いかけてみる。これは実に難しい問題だ。

 体罰はないほうが良いに決まっているのに何故、是か非かは難しいのか?
 
 それにはいくつかの要因があるように思われる。

 

 私の好きな作家に宮城谷昌光という人がいる。氏の作品の多くは古代中国、特にいわゆる春秋戦国時代を舞台にしている。その時代というのは孔子や孫子など諸子百家の時代でもあるわけで、作中にもよく師匠と弟子の有り様が描かれているのだが、そこによくある姿というのは、まず、弟子になろうと言う人が、師匠を探すところから始まり、その師匠を訪ね、そこで師匠を初め高弟と言われる古株の弟子達が面接を行い、その挙措、声色にある志を見、弟子になることを許すというものだ。つまり、弟子がまず、師匠を選び、そしてその上で師匠が弟子を選ぶわけだ。そして、弟子入りしてすぐには師匠から直接教えを受けることはほとんどできない。高弟の中の一人から教えを請うのだ。その理由は師匠となる人はほとんどの場合、問われてよりはじめて応えるという形を取るわけで、一から十まで全てを教えるというわけではないのだ。それが『学びて問う』という学問本来のスタイルなわけだ。それと共にきっとLean by Teachingという思想が根付いているのだろう。教えることによって学ぶことも多いのだ。
 それがどうした?といわれるかも知れないが、そこにあるものは何か?といえば、入門したときにはすでにお互いを尊重しあう気持ちであり、信頼関係が少なからず築かれているということなのだ。

 勿論、これは小説の中の話であり、理想だとは思う。ピッカピッカの小学校1年生がそういう思想を持って入学してきたらそれこそ気持ちが悪い。しかも師匠である先生も、弟子である生徒もお互いを選ぶことはできない。そこで是か非かが難しい要因の一つ・・・というところへ帰ってくる。

 要因の一つは家庭にあると思う。『学校で子供を躾けて貰う』という考え方の保護者が沢山いるということだ。つまり普通最低限必要だと思われる躾すらなされずに入ってくる子供もいるわけだ。これがまた例えば30人クラスの全員がそうであればまだ対応ができる。しかし、きちんと出来ている子供とできていない子供が入り混じっている場合、たった一人の先生でできることといえば本当に限られているのではないのだろうか?教え諭すが通用しない場合、勿論それを何度も繰り返さなくてはならないのだけれども、教育課程というものに沿って、1年間の授業を行いながら、変な話、躾を行っていくのは至難の業だと思う。一度言って聞かない子供はばしっと手を下さなくてはならないのではないだろうか。ところがそういう躾の出来ていない子供に限って、家でぶたれたことがない・・・なんてことが多いから厄介なのだ。家に帰って『先生にぶたれた~』などといおうものなら、いまや大問題になってしまうわけだ。

 また、私(36歳)が子供の頃は家の近所で沢山の子供たちと、そう年上も年下も入り混じって真っ暗になるまで遊ぶということがほとんどだった。その中で子供なりの社会を学び、やっていいこと悪いことを教わる。また、ケンカもするが、それによって殴って良い所、悪い所また、殴らせても良い所、守らなくてはならないところを覚えていくものだった。
 しかし、今はゲームの時代であり、子供達が遊ぶといってもお互いがゲーム機を持ち合って(通信で対戦などができるとしても)、ゲームの世界で遊ぶわけで、そのバーチャルな世界からはバーチャルな痛みしか生まれないため、本当の痛みを知らないまま育つことになる。だから、殴る方もどこを殴っちゃいけないのかわからないし、殴られる方も守るべきところを知らないまま育つということになる。何もゲームが悪いというのではない。ゲームの中から学ぶものも非常に多いのは否定できない。しかし、偏ってしまうということが非常に恐ろしいことであり、その子供の偏りを治すのは保護者しかいないのではないか。話が少々それたが、少なくとも親がやって良い事と悪い事の区別は教えるべきだし、それができなければ手を下すという事をしなければならないと思う。

 次に挙げるのは子供の問題だ。乙武さんのブログの『体罰の是非』にあるように注意しても「おめえには関係ねえよ」と返したり、他にも例えば援助交際という名の売春をしても「誰にも迷惑かけてねーじゃん」という子供が増え、そしてそういう子供に限って先生が体罰に及ぶとクビが飛ぶことを知っていたりするので質が悪い。教師(いや、教諭か・・・)を尊敬もせず、信頼もしない子供たちに果たして『教え、諭す』ことが可能なのだろうか?甚だ疑問が残ってしまう。

 そして先生の問題。毎日のように報道されるセクハラ・破廉恥教師の話題。その一方で登校拒否を起こしてしまう先生も増える一方となれば子供の問題では『教諭を尊敬もせず・・・』とは言ったものの、逆に『教諭のどこを尊敬しろというのだ!!』という問題にもたどり着いてしまう。セクハラ・破廉恥教師は問題外としても、登校拒否の問題は深刻だと思う。勿論、教諭間の人間関係に悩む人も多いのだろうし、それ以外のところで人生に疲れてしまっている人もいるのだろうけれども、やはり現在のどうにもならない教育現場に嫌気がさしている人も多いのだろう。体罰は勿論、怒鳴ることも許されず、権限はかけらもないが、責任だけは重いという現状を嘆くのは当然だと思う。

 乙武さんのブログの『体罰!セクハラ!!2』には新宿区の教育指導課長の話が載っているが、例えば逆上がりのできない子供のお尻をぽんと押してあげるという行為が既にセクハラになる可能性があるという。そしてその課長さん曰く、

 「子供には触れないようにする。それがいちばん無難ということですよ」と。

 こんな衝撃的な言葉があるだろうか。子供を叩くと体罰になり、撫でると下手すりゃセクハラになり、触れないのが無難だとして、そういう教諭が増えたとすると、何のために大学に入り、教育というものを学び、難しい採用試験をやるのか意味がなくなってしまう。そんな教諭ならバイトの兄ちゃん姉ちゃんで勤まってしまうではないか!!

 そして・・・、教師を尊敬しない子供達、生徒に触れないことが無難とする教師達、過剰な監視の目を敷く保護者達、こういう人たちで構成される学校って、いったいどんな所なんだ?私にはどうにもならない場所にしか思えないのだが・・・。


 で、体罰は是か非か?という問題だ。私は非ではあるが、必要なのではないか?と思う。なんだか大国の核保有の言い訳のようでみっともないのだけれども、現状を考えれば致し方ないのではないか。ただ、原則はあくまで罰なのだ。怒ると叱るは違うのだ。怒るというのは部首がしたごころであることからもわかるように心の問題、つまり感情の問題であり、原義が『感情が起こる』から「おこる」というわけで、原則として教え諭すべき教諭が怒ってはならないのだ。叱っても叱っても、教えても諭しても駄目なとき、それが体罰を与える時なのではないか?これを結論とするけれども、ひとつ付け加えておきたい。ジーコジャパンではないけれども、教師・生徒・保護者そして教育を考えるべき機関(教育委員会であったり文部省ってことですね)がもっとコミュニケーションをとって、教育の現状を考えなくてはならないのではないか?そうでなければ体罰はなくせないと思う。教諭が教え、諭すという本来の姿に戻れるように考えていかなくてはならないのではないだろうか。


|

« 今日のT・・・5/25 エース復活? | トップページ | 今日のT・・・5/26 »

「学問・資格」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/53085/4288580

この記事へのトラックバック一覧です: 体罰:

» 期待することと押しつけること [もぐらくんドットコム::blog]
乙武さんのブログに新しい記事がアップされたので、またまたトラックバックさせてもら... [続きを読む]

受信: 2005/05/27 00:54

» コミュニケーション能力とは [ちょこっとメモ日記]
乙武さんの新しい記事で 乙武さんの記事の一部で乙武さんと担当課長さんの対話につい [続きを読む]

受信: 2005/06/04 10:47

« 今日のT・・・5/25 エース復活? | トップページ | 今日のT・・・5/26 »